第8回「『二水記』を読む会」を平安神宮で開催しました。
- 2025年12月2日
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令和7年12月2日、第10回「『二水記』を読む会」を平安神宮で開催しました(協賛:弁護士法人SACI京都支部・四条烏丸法律事務所)。
出席者:下坂守様(講師)、鷲尾隆久様(平安神宮宮司)、米澤洋子様(京都橘大学)、寳光井英彦様(祇園信仰研究会)、西山剛様(京都府京都文化博物館)、山科言親様(衣紋道山科流)。書記・北原理咲子(京都大学大学院文学研究科修士)。
(結果概要)『二水記』を読む会 第8回概要
前回の続き、永正元年(1504)6月の記録から見ていく。
○賀茂より帰宅 —永正元年6月1日—
この日、隆康は賀茂より帰宅している。5月27日に賀茂社および貴船社へ参詣していることから、数日間賀茂の辺りに滞在していたのだろう。ここでいう賀茂社は、現在の上賀茂神社を指すと考えられる。
・賀茂社と貴船社の関係
当時すでに上賀茂神社と下鴨神社は明確に区別されており、前者は「賀茂」社、後者は「鴨」社、あるいは「糺(ただす)」社と表記されていた。
貴船社はもともと貴船地域の地主神として独立した社であったが、寛仁元年(1017)以前には賀茂社の末社となっていたことが確認できる。寛文4年(1664)には、幕府の裁定により上賀茂社の末社であることが明確化され、この関係は明治期に貴船社が上賀茂社から独立するまで継続した。
・賀茂社の信仰
当時は「夢告(むごう)」と称し、夢中に神託を受けることを目的として寺社に参籠する信仰形態が存在した。しかし賀茂社は本来、国家安泰を祈願するための社であり、一般的な参詣の場ではなかった。そのため、隆康の参詣が個人的信仰に基づくものであったかどうかは判然としない。
なお、同じ二十二社であっても、祇園社(現在の八坂神社)のように貴賤を問わず信仰の対象となった社も存在したが、参詣の形式や接点は身分によって区別されていた。
○祇園会 —永正元年6月7日—
この日は祇園会のため、御柏原天皇が紫宸殿より祭礼を見物した。公家衆が桟敷を設けて祇園会を見物する例は知られているが、天皇が御所内から祭礼の様子を望見したという点は注目される。御所からの距離を考えると、実際に目にしたのは神輿ではなく、山鉾であったのだろう。
・土御門御所
当時の御所は土御門東洞院内裏(いわゆる土御門御所)であり、現在の京都御所における紫宸殿・清涼殿付近がその旧地にあたると考えられる。禁裏は一町四方の規模で、現在の下京区に所在する佛光寺とほぼ同程度の面積であった。寺院としては比較的広い方ではあるが、同じ面積のうちに紫宸殿や清涼殿が収まっていたことを考慮すると、きわめて小さい禁裏であったといえる。
・七日山鉾
祇園会(祇園祭)は、神輿渡御と山鉾巡行という二つの祭事によって構成されている。神輿渡御は、旧暦6月7日の「神輿迎」(神幸)と、それから7日後の旧暦6月14日の「祇園会」(祇園御霊会、還幸)によって成り立っており、戦国期においても特に後者を「祇園会」と呼んでいたように、本来はこちらが重視されていた。しかし、祇園会は応仁・文明の乱により応仁元年(1467)に断絶し、33年後の明応9年(1500)に再興された。その後の山鉾巡行においては、「十四日山々」よりも「七日山鉾」の方が数や種類でまさっており、7日の祭礼に注目が集まるようになったと考えられている。
なお、同月14日条には「晴」とあるのみで、祇園会に関する記述は見られない。翌年には同祭が開催されているので、この日も形式的な儀式はあったのかもしれない。
○清彦親王初参内 —永正元年6月8日—
この日、三宮御方こと清彦親王が初めて参内した。同年4月21日条に「今日三宮御タンシヤウ」とあるように、生後まだ2か月ほどの赤ん坊であったことがわかる。上臈が傍らに付き添い、女房のもとを巡りながら新たに誕生した皇子がお目見えする様子は、なんとも微笑ましい場面である。なお、「三宮」という呼称の用法は一定ではなく、必ずしも第三皇子を意味するものではなかったようである。
・御剣
若年の隆康も御剣を持って親王に随従している。ここでの御剣が何を指すのかは明確ではないが、三種の神器の一つである草薙剣ではなく、子供のための魔除けとして用いられたものであろうか。刀剣のうち、太刀は腰にぶら下げる、刀は腰に差すという違いがあり、刃の反りも異なる。ここでの御剣は両刃の剣ではなく太刀であったと考えられる。
・知仁親王
清彦親王はその後、御方御所こと知仁親王にもお目見えしている。知仁親王は清彦親王の兄にあたり、後の後奈良天皇である。当時8歳であった知仁親王が、生後間もない弟とどのような心情で対面したのかは知る由もないが、天皇家における兄弟の和やかな一場面と見ることができよう。なお、後奈良天皇は父・後柏原天皇と筆跡がきわめてよく似ており、その影響が認められる。作例数は後柏原天皇を上回り、多くの地方大名に宸筆が下賜された。
・天笏
清彦親王の参内の後、常御所において天皇が万里小路賢房らにお酌を行っている。常御所とは清涼殿を指す。「天笏」と表記されている点については、これは「酌」という行為を下賤なものと捉え、忌字として意図的に「笏」の字を用いた可能性も考えられる。
○町広光死去 —永正元年6月15日—
この日の記事には、町家最後の当主である町広光の訃報が書き加えられている。町家は、日野家庶流の柳原家から独立した分家であった。広光は子息の全てを寺院に入れる、あるいは他家へ養子に出すことで町家を絶家とした。当時の町家は経済的に困窮し、家督を継続できる状況ではなかったことから、意図的に家を畳んだと考えられる。
もっとも、広光の子のうちには、広橋家の養子として家督を継いだ者や、興福寺別当を務めた者もおり、絶家となった公家の子が必ずしも不遇な末路を辿ったわけではないようである。戦乱によって逼迫した公家社会においては、このような公家のあり方も存在していたのだろう。
○伏見殿酒宴 —永正元年6月16日—
この日の夜、邦高親王のもとで夜通しの酒宴が催された。隆康は13日に腹痛を理由に当番を欠勤しているが、15日には出仕し、さらに翌日には他人の家で深酒をしていることから、20歳という若さと体力がうかがえる。なお、6月の酒は品質が落ちやすく、一夜置けば酢に変じるとされていたため、酒宴では一晩のうちに飲み尽くすのが常であったという。
(以下、次回に続く)

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